のぶながの小さな野望の日本史解説

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織田信長の誕生から尾張統一までPERT③【解説】

 どうもこんにちは、のぶながの小さな野望です。信長の誕生から尾張統一までの解説をこれまで2回行い、今回の3回目で完結します。

 

 では、清洲織田氏を滅ぼした以降の出来事を箇条書きで見ていきましょう。

  1. 天文24(弘治元・1555)年に斎藤道三が息子義龍に謀反に起こされ、翌年に死亡する。義龍と信長は敵対関係になる。
  2. 弘治2(1556)年、信長の同母弟信行(信勝)が謀反を起こすが、制圧する。だが翌年再度謀反を起こそうとしたため、信行を殺害する。
  3. 弘治2(1556)年、信長の兄信広が謀反を起こそうとするが、計画が漏れ、程なく降伏する。
  4. 弘治2(1556)年、岩倉織田氏と敵対関係となり、永禄元(1558)年に岩倉城を攻略する。実質的に尾張国統一。

 一つ目の斎藤道三が息子の義龍に謀反を起こされ死亡するですが、道三には三人の息子がおり、上から義龍・孫次郎・喜平次がいます。道三は長男の義龍を蔑ろに扱い、下2人の息子達を可愛がりました。これに自身が廃嫡になると考えた義龍は、天文24(弘治元・1555)年に謀反を起こし、弟達を殺害しました。さらに翌年道三を討ち取り、美濃国を乗っ取りました。

 この事件での信長に対する影響は大きいものでした。それは道三は信長にとって義父であり、最大の支援者であったからです。それを失ったことで信長に付き従うことへの不信感が生まれ、その後の敵対や謀反へと繋がります。義龍は道三が支援していた信長と敵対関係になり、美濃尾張の同盟関係も解消されました。

 二つ目の信行が謀反を起こすですが、前回の解説で、信長が家督を継いだ時に反対する家臣がいたと書いたと思います。その反対した家臣の主要人物は信長の他に誰が弾正忠家を継ぐのに相応しいかを考えたところ、信長の同母弟の信行を担ぐ意見でまとまりました。ここで異母兄の信広が担がれないのは、母の身分と信広自身の器量に問題があったためだと思われます。

 信行は天文24(1555)年5月頃から信長を差し置いて、弾正忠を名乗るようになります。これは信行自身が織田弾正忠家の当主だと示すためだと考えられます。そして翌年の弘治2(1556)年に信長の支援者であった斎藤道三が息子義龍に討たれたのを契機に、信行が謀反を起こします。信行家臣には信秀の重臣であった柴田勝家や信長幼少の頃から1番家老であった林秀貞とその弟通具がいました。ですが柴田勝家が信長に敗戦したことや林通具の戦死があり、信行は信長に降伏します。信長は母土田御前の懇願もあり、信行を許し、柴田勝家林秀貞など信行家臣も赦免しました。

 ですが翌年の弘治3(1557)年に岩倉織田氏に通じ、再度謀反を起こそうとしたところを、柴田勝家がこの計画を信長に報告しました。柴田勝家は前年の戦いで信長が無能ではないことを確信し、織田弾正忠家の当主に相応しい人物だと認識したのだと思われます。この情報漏洩で、信長は信行誅殺計画を立て、病身のふりをして信行をおびき出し、誅殺しました。

 三つ目の信広が謀反を起こそうとするですが、信広はPERT①でも解説したように信長の腹違いの兄です。その信広が美濃勢と結託し、謀反を起こそうとします。計画は美濃勢と信長を戦わせ、信広は信長留守の間に清洲城を落とし、機を見て後方から信長を攻撃するというものでした。ですが、信長は気合いを抜いた様子で布陣した美濃勢を見て、自軍に謀反者がいること見抜き、清洲城留守番の佐脇藤右衛門に自身が帰ってくるまで人を城内に入れないよう指示しました。これにより信広は清洲城内に入れず、計画が知られたと感じ撤退しました。そして程なくして信広は降伏し、信長は信広を赦免しました。

 四つ目の岩倉織田氏と敵対関係となるですが、岩倉織田氏当主織田信安は信長と美濃勢が敵対関係になったことにより、美濃の斎藤義龍と示し合わせ、信長に敵対行動をするようになりました。

 ここで弘治2(1555)年当時の信長敵対勢力を見てみよう。

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青色:岩倉織田氏 桃色:織田信広織田信行 赤色:駿河 緑色:美濃勢

 このように見てみると四方八方敵だらけです。そのため信長は弱い勢力から各個撃破することで、危機を脱しました。具体的な流れは犬山・田楽勢→信広→信行→岩倉織田氏駿河勢→再度犬山・田楽勢→美濃勢です。これで分かることは、尾張統一するまで他国を本格的に侵攻していないことです。まずは国内を平定していくことで尾張国内の地盤を固めることに専念する方針を一貫しています。そのため尾張統一後に起きた駿河勢の尾張侵攻に対して、尾張国内の不安要素がないため専念して戦えたわけです。

 信長の尾張統一は岩倉織田氏を倒したことにより、尾張国内勢力での対抗勢力はなくなり、尾張国を実質的に統一しました。ですが鳴海城以東は駿河勢の支配下であり、犬山勢などの尾張北側の勢力は信長に服従していますが、油断ならない状況でした。鳴海城以東が信長支配化になるのは、永禄3(1560)年の桶狭間の戦い以降です。犬山・田楽地域の完全支配は、永禄7(1564)年の犬山城陥落し、城主の織田信清が甲斐に逃亡して以降です。

 

 今回で織田信長の誕生から尾張統一までの解説は終わりです。次回のテーマは江戸幕府5代将軍継承問題についてやろうと思います。

 疑問・質問などがありましたら、コメントしてもらえれば何らかの回答します。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。