のぶながの小さな野望の日本史解説

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徳川将軍家5代目将軍継承問題【解説・考察】

 どうもこんにちは、のぶながの小さな野望です。前回までは信長について解説していましたが、今回は江戸時代の徳川将軍家5代目将軍継承問題について解説します。

 

 では、継承問題について解説する前に徳川将軍家の初代から4代までを見てみましょう。

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江戸幕府を開いた初代将軍は言わずと知れた徳川家康ですね。家康の長男信康は、天正7(1579)年に自刃しており、次男秀康は家康から冷遇されていたため、跡継ぎは三男の秀忠になりました。そして秀忠の嫡子(次男)の家光が3代将軍になり、家光の長男の家綱が4代将軍に就きました。

 

 4代将軍の家綱は、延宝8(1680)年に40歳の若さで病状が深刻化しますが、実子は、死産や流産でいなかったため、家康からの直系世襲が崩れてしまいました。ですがそれでも将軍に誰かを就けなくてはいけないため、江戸幕府重臣たちは候補者を何名か出します。

 

将軍候補者 

徳川綱吉

徳川徳松

徳川綱豊

有栖川宮幸仁

 ①の綱吉は家光の四男として生まれ、4代将軍家綱は兄にあたります。家綱治政時は、上野館林藩の藩主でした。家綱の病状悪化時は34歳です。血筋としては、問題ありませんが、江戸幕府重臣の一人である大老酒井忠清からは器量がないとして将軍就任を反対されていました。

 ②の徳松は徳川綱吉の長男で、延宝7(1679)年に生まれたばかりの赤子です。家綱の病状悪化時は、まだ1歳ですが、子供だから扱いやすいと幕府上層部からは人気でした。

 ③の綱豊は家光の三男綱重の長男であり、立場的には徳松と同じです。ですが年齢が家綱病状悪化時に18歳であり、徳松と違い元服しているので、幕府上層部が扱いにくいところがあります。

 ④の有栖川宮幸仁は、後西天皇の息子で親王宣下を受けた皇族です。幸仁の祖父後水皇天皇は、中宮徳川秀忠の娘徳川和子を迎えています。ですが、後西天皇の母は別の人物なため、有栖川宮幸仁は徳川家とは親戚であるが、血縁はない関係ということです。大老酒井忠清鎌倉幕府の3代源実朝が亡くなったあと、北条氏が皇族から将軍を迎え入れた宮将軍にした先例に習って、徳川将軍家と親戚関係のある幸仁を将軍に擁立しようとしました。(諸説あり)

 

 このように候補者4名で幕府上層部は議論していましたが、急遽家綱が危篤状態に入ってしまいました。そのため折衷案の安定方針で、藩政に携わっており、ある程度政治に見識のある綱吉が、家綱の跡継ぎに決まりました。そして延宝8(1680)年に家綱が死去してしまったため、そのまま綱吉が5代将軍となりました。

 

 では、他3名のどこが駄目で将軍に選ばれなかったのでしょうか。考察していきましょう。

 ②の徳松ですが、まず安定方針を取るのであれば若すぎます。元服前の幼少な子を将軍にすると、それを補佐するNO.2の権威が上がり、専横政治が起こる可能性が出てくるので駄目です。さらに徳松の父綱吉がまだ現役で藩主をしている状況で、息子が将軍になるというのも道理がなく駄目です。

 ③の綱豊ですが、彼は元服しており、さらに甲府藩主と綱吉と同じ社会的立場にあります。ですが年齢が18歳と若く藩主になったのも延宝6(1678)年と2年しか経っていません。これでは経験が浅すぎるため安定方針とは合いません。

 ④の幸仁ですが、安定方針でいくなら最悪なチョイスです。まず徳川将軍家と血縁でなく、さらに武士ではないというのは、政治を動かすトップとしては役不足です。この近世の江戸時代は、封建制社会という階層が存在する日本社会のなかで、貴族という身分は武士(江戸幕府)に間接的ながらも支配される立場にありました。禁中並公家諸法度がそのいい例です。そのような立場・身分が違う異分子を早急にトップに据えるというのは、内部分裂を起こしかねない状況になるのは明らかです。

 さらに、幸仁を推す人物と理由付けが非常にまずいです。幸仁を推した人物が大老酒井忠清雅楽頭酒井氏は徳川将軍家と遠い縁戚関係があり、忠清の祖父忠世も江戸幕府大老の役職に就いていました。そのような江戸幕府内で多大だ力を持っている人物が、推した人物が将軍になってしまうと、忠清の専横政治が行われてしまう可能性があります。さらに理由付けが北条氏が宮将軍を擁立したというは、その後北条氏鎌倉幕府を執権政治で専横した過去を行おうという意図を感じさせてしまいます。そのため幸仁は将軍に選ばれなかったと思われます。

 このように4候補のなかから綱吉が選ばれたのは、一番安定性が見込めるからだという分かります。

 

 5代将軍が決まったのちに、徳川綱吉は自身の将軍就任に反対していた酒井忠清を病気を理由に大老職を解任させ、隠居まで追い込んでいます。そのため有栖川宮幸仁を擁立しようとしたというのは、忠清失脚後に流布された風説という説が存在します。

 ともあれ、綱吉将軍就任で一番損をしたのは酒井忠清(雅楽頭酒井氏)です。その一方綱吉を推していた堀田正俊は忠清に変わり大老職に就くことになり、綱吉の側近になることで権力を持ちました。

 ちなみに、候補③の綱豊ですが、彼はのちに名を家宣と改め、6代将軍に就任します。

 

 次回のテーマは未定ですが、古代か中世のことを扱おうと思っています。

 質問・疑問などありましたらコメントいただければ答えられる範囲で答えます。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。

織田信長の誕生から尾張統一までPERT③【解説】

 どうもこんにちは、のぶながの小さな野望です。信長の誕生から尾張統一までの解説をこれまで2回行い、今回の3回目で完結します。

 

 では、清洲織田氏を滅ぼした以降の出来事を箇条書きで見ていきましょう。

  1. 天文24(弘治元・1555)年に斎藤道三が息子義龍に謀反に起こされ、翌年に死亡する。義龍と信長は敵対関係になる。
  2. 弘治2(1556)年、信長の同母弟信行(信勝)が謀反を起こすが、制圧する。だが翌年再度謀反を起こそうとしたため、信行を殺害する。
  3. 弘治2(1556)年、信長の兄信広が謀反を起こそうとするが、計画が漏れ、程なく降伏する。
  4. 弘治2(1556)年、岩倉織田氏と敵対関係となり、永禄元(1558)年に岩倉城を攻略する。実質的に尾張国統一。

 一つ目の斎藤道三が息子の義龍に謀反を起こされ死亡するですが、道三には三人の息子がおり、上から義龍・孫次郎・喜平次がいます。道三は長男の義龍を蔑ろに扱い、下2人の息子達を可愛がりました。これに自身が廃嫡になると考えた義龍は、天文24(弘治元・1555)年に謀反を起こし、弟達を殺害しました。さらに翌年道三を討ち取り、美濃国を乗っ取りました。

 この事件での信長に対する影響は大きいものでした。それは道三は信長にとって義父であり、最大の支援者であったからです。それを失ったことで信長に付き従うことへの不信感が生まれ、その後の敵対や謀反へと繋がります。義龍は道三が支援していた信長と敵対関係になり、美濃尾張の同盟関係も解消されました。

 二つ目の信行が謀反を起こすですが、前回の解説で、信長が家督を継いだ時に反対する家臣がいたと書いたと思います。その反対した家臣の主要人物は信長の他に誰が弾正忠家を継ぐのに相応しいかを考えたところ、信長の同母弟の信行を担ぐ意見でまとまりました。ここで異母兄の信広が担がれないのは、母の身分と信広自身の器量に問題があったためだと思われます。

 信行は天文24(1555)年5月頃から信長を差し置いて、弾正忠を名乗るようになります。これは信行自身が織田弾正忠家の当主だと示すためだと考えられます。そして翌年の弘治2(1556)年に信長の支援者であった斎藤道三が息子義龍に討たれたのを契機に、信行が謀反を起こします。信行家臣には信秀の重臣であった柴田勝家や信長幼少の頃から1番家老であった林秀貞とその弟通具がいました。ですが柴田勝家が信長に敗戦したことや林通具の戦死があり、信行は信長に降伏します。信長は母土田御前の懇願もあり、信行を許し、柴田勝家林秀貞など信行家臣も赦免しました。

 ですが翌年の弘治3(1557)年に岩倉織田氏に通じ、再度謀反を起こそうとしたところを、柴田勝家がこの計画を信長に報告しました。柴田勝家は前年の戦いで信長が無能ではないことを確信し、織田弾正忠家の当主に相応しい人物だと認識したのだと思われます。この情報漏洩で、信長は信行誅殺計画を立て、病身のふりをして信行をおびき出し、誅殺しました。

 三つ目の信広が謀反を起こそうとするですが、信広はPERT①でも解説したように信長の腹違いの兄です。その信広が美濃勢と結託し、謀反を起こそうとします。計画は美濃勢と信長を戦わせ、信広は信長留守の間に清洲城を落とし、機を見て後方から信長を攻撃するというものでした。ですが、信長は気合いを抜いた様子で布陣した美濃勢を見て、自軍に謀反者がいること見抜き、清洲城留守番の佐脇藤右衛門に自身が帰ってくるまで人を城内に入れないよう指示しました。これにより信広は清洲城内に入れず、計画が知られたと感じ撤退しました。そして程なくして信広は降伏し、信長は信広を赦免しました。

 四つ目の岩倉織田氏と敵対関係となるですが、岩倉織田氏当主織田信安は信長と美濃勢が敵対関係になったことにより、美濃の斎藤義龍と示し合わせ、信長に敵対行動をするようになりました。

 ここで弘治2(1555)年当時の信長敵対勢力を見てみよう。

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青色:岩倉織田氏 桃色:織田信広織田信行 赤色:駿河 緑色:美濃勢

 このように見てみると四方八方敵だらけです。そのため信長は弱い勢力から各個撃破することで、危機を脱しました。具体的な流れは犬山・田楽勢→信広→信行→岩倉織田氏駿河勢→再度犬山・田楽勢→美濃勢です。これで分かることは、尾張統一するまで他国を本格的に侵攻していないことです。まずは国内を平定していくことで尾張国内の地盤を固めることに専念する方針を一貫しています。そのため尾張統一後に起きた駿河勢の尾張侵攻に対して、尾張国内の不安要素がないため専念して戦えたわけです。

 信長の尾張統一は岩倉織田氏を倒したことにより、尾張国内勢力での対抗勢力はなくなり、尾張国を実質的に統一しました。ですが鳴海城以東は駿河勢の支配下であり、犬山勢などの尾張北側の勢力は信長に服従していますが、油断ならない状況でした。鳴海城以東が信長支配化になるのは、永禄3(1560)年の桶狭間の戦い以降です。犬山・田楽地域の完全支配は、永禄7(1564)年の犬山城陥落し、城主の織田信清が甲斐に逃亡して以降です。

 

 今回で織田信長の誕生から尾張統一までの解説は終わりです。次回のテーマは江戸幕府5代将軍継承問題についてやろうと思います。

 疑問・質問などがありましたら、コメントしてもらえれば何らかの回答します。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。 

 

織田信長の誕生から尾張統一までPERT②【解説】

 どうもこんにちは、のぶながの小さな野望です。前回から続き、織田信長の誕生から尾張統一までの解説を行いたいと思います。

 

 ですが、その前に信長の父織田信秀時代の尾張国の勢力図を画像で確認したいと思います。

 

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赤色:織田弾正忠家 青色:清洲織田氏 緑色:岩倉織田氏(天保国絵図尾張国を編集)

 ざっくりとした勢力図で申し訳ないですが、自作なので勘弁してください。この地図を見れば分かる通り、織田弾正忠家(織田信秀)の勢力の大きさは他二つの勢力を凌駕するものです。前回説明しましたが、織田弾正忠家は清洲織田氏の部下の立場にあります。ですが、弾正忠家は強大な勢力を持っていたため主体的に三河・美濃などの他国へ出兵することが可能となりました。ですが信秀は終生清洲織田氏の奉行としての地位を維持し、尾張国内での対立勢力を排除することはありませんでした。そのため信長が家督相続後に反乱勢力との対決を強いられる状況となります。

 

 では、このような状況の中信長は元服以降どのような出来事が起きたか確認して行きましょう。

  1. 天文17(1548)年、斎藤道三濃姫と婚姻
  2. 天文20(1551)年、織田信秀病死、信長が家督を継ぎ上総介信長を名乗る
  3. 天文21(1552)年~天文24(弘治元、1555)年にかけ反乱勢力清洲織田氏と対決し勝利する。
 一つ目の斎藤道三濃姫と婚姻ですが、斎藤道三とは美濃国戦国大名で下克上で成り上がった人物です。織田信秀は天文16(1547)年に斎藤道三の居城稲葉山城城下まで押し寄せる侵攻を行っている。だが尾張への撤退戦で斎藤勢に追撃され大損害を受けている。さらに同年に尾張国内の対抗勢力からの侵攻・自勢力から反乱分子出現・今川義元の西三河侵攻制圧などで勢力衰退の危機にありました。

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赤色:尾張国内反乱勢力(犬山衆・田楽衆・清洲織田氏) 水色:美濃勢 紫色:駿河
 そのような中、美濃での敗戦の翌年に斎藤道三の娘濃姫と信秀の息子信長の婚姻が示すものは、斎藤道三との和睦です。さらに清洲織田氏とも和睦し、犬山衆・田楽衆を武力で鎮圧した。この和睦や鎮圧により戦う相手を絞ることができ、自戦力の分散を防ぐ狙いがあったと思われます。
 二つ目の信長が家督を継ぐですが、信長の父信秀は流行病にかかり、天文20(1551)年【諸説有り】に42歳で亡くなった。これにより信長が家督を継ぐ事になりました。ですがPERT①でも書いた通り、信長は嫡子として相応しくない行動を行っていたため、信長の家督相続に反対する弾正忠家家臣が大勢いました。その者達がのちに家を二分する反抗勢力となっていきます。さらに信長の傅役(お守り役)であった平手政秀が天文22(1553)年自害しています。自害の理由は諸説ありますが、『信長公記』では、政秀長男五郎右衛門の馬を信長が所望したところ、小憎たらしく断ったため信長は恨み、その影響で主従不和となり自害したとされています。これら家中の不穏分子や傅役の自害で信長の政治的立場は不安定なものであったと思われます。
 上総介信長を名乗るについてですが、なぜ信長が上総介という官職を選んで名乗ったのかについて考察しましょう。そもそも地方官史の位は律令制では四等官制で、上から守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかめ)で分けられます。そのため上総介は上総国の次官の官史となります。上総介という官職は中世では主に足利氏の分家の吉良氏が名乗る官職でした。ですが吉良氏(三河吉良氏)は戦国時代に入り内部分裂を起こし衰退していました。そこで台頭してきたのが吉良氏の分家であった駿河今川氏です。ですから三河吉良氏は今川氏の主家筋にあたります。そのため信長は元々吉良氏の官職であった上総介を名乗ることで、今川氏に「おまえより上だから」という主張となっているわけです。ちなみに戦国時代に入り、室町幕府の権威が低下するにつれ、戦国大名や地方豪族が勝手に官職を名乗るというのは良くあることなので、信長も幕府の許可無く勝手に上総介を名乗っていたと思われます。
 余談ですが、信長は一時期上総守を名乗っています。ですが、上総国親王任国(親王が国守に任じられた国)のため、上総太守(上総守と同じ)は親王のみとなります。そのため誰かに指摘されたのか、上総守は一年足らずで名乗らなくなり、その代わり上総介を名乗り始めました。
 三つ目の反乱勢力清洲織田氏と対決ですが、信長は家督を継いだ翌年の天文21(1552)年から謀反を起こされています。鳴海城城主の山口教継、息子教吉が今川義元に内通し駿河勢を尾張領内に引き入れるという事件を起こしました。さらに同年に清洲織田氏の家臣が信長の勢力範囲内の城を占領する事件も起きています。これらに対し、信長は抗戦の姿勢をみせました。
 反乱分子や駿河勢・清洲勢との攻防の中、天文23(1554)年7月12日に尾張守護であった斯波義統が清洲織田氏の家臣に攻められ自害しました。これにより義統の息子義銀(当時は幼名の岩龍丸)が信長を頼り落ち延びてきたことにより、信長は清洲織田氏を討つ大義名分を得たのです。これは尾張統一において非常重要なことであり、討たれた守護の子息を担いで尾張統一に乗り出すことにより、中立であった者達を自陣営に引き入れる理由が出来ます。なにより大義名分を得た自軍勢の士気が上がります。
 これにより同年7月18日には信長の弟信行家臣柴田勝家清洲へ攻め大勝を挙げ清洲織田氏の重臣を数々討ち取りました。劣勢となりさらに重臣も失ってしまった清洲織田氏方は織田信秀の弟信光と清洲織田氏当主織田信友の2名を守護代にし、信光を自陣営に取り込む計画を立てました。信光は信秀の右腕のような存在で、信秀死後は信長支持派の重要人物となっていました。信光は計画に乗ったふりをして、信長にこのことを報告し、清洲城に入城しました。そして天文24(1555)年4月20日に信光は清洲城を乗っ取り、織田信友切腹させました。これにより清洲城は信長のものとなり、清洲織田氏は滅亡しました。
 余談ですが、織田信光清洲城占領後は清洲城を信長に譲り、代わりに信長の居城であった那古屋城(名古屋城とは別)を貰っています。ですが清洲城乗っ取り事件と同年弘治元(1555)年11月26日に不慮の事故で横死しています。誰の意図が働いて殺されたのでしょうかね?
 
 PERT②では信長の尾張統一の前半部分の解説をしました。おそらくPERT③で尾張統一までの話は終わります。次のテーマを現在考えていますのでお楽しみに。
 質問・疑問など何かありましたら、コメントしてください。何らかの回答をします。
 ここまで読んでいただきありがとうございました。

 








織田信長の誕生から尾張統一までPERT①【解説】

 どうもこんにちは、のぶながの小さな野望です。なんとなく始めたブログに足を運んでいただきありがとうございます。試行錯誤をしている真っ最中なので、読みづらいかも知れません。申し訳ないです…。

 

 このブログは、日本史に登場する人物出来事について解説するものです。筆者の趣味的にテーマが戦国時代から幕末が中心となってしまいがちになると思われますが、リクエストが有ればできる限り解説したいと思っています。

 

 今回のテーマは織田信長の誕生から尾張統一までの解説を行いたいと思います。織田信長は皆さん良く知っている人物だと思います。尾張国から領土を拡大し、天下統一間際と思われていた1582年に本能寺の変で亡くなった戦国大名です。ところが有名人物の織田信長が教科書で取り扱われる最初の場面は1560年の今川義元に勝った桶狭間の戦いからが大半です。じゃあそれ以前は何をしていたのと聞いても殆どの人は分からないと思います。では、解説しようではないかというのが今回のテーマを選んだきっかけです。

 

 それではまず織田信長の誕生から元服までの出来事をざっくり見てみましょう。

  1. 天文3(1534)年5月12日に織田弾正忠家当主信秀嫡子として誕生。幼名は吉法師
  2. 幼少の頃から青年まで奇行を繰り返し、周囲から尾張の大うつけと呼ばれる。
  3. 天文15(1546)年に古渡城で元服三郎信長と名乗る。
 一つ目の織田信秀の嫡子として生まれるですが、信長には実は兄がいます。名を織田信広といいます。信広の母は信秀の側室で史料に記載はないですが、おそらく身分が低い人物だったと思われます。次男の信長は母が信秀の正室である土田御前であったため嫡子となったわけです。
 ちなみに織田信秀尾張国守護斯波氏の被官で尾張下四郡守護代清洲織田氏の家臣の三奉行という立場にいました。わかりやすく書くと
尾張守護斯波氏  尾張下四郡守護代清洲織田氏  三奉行弾正忠家信秀 
となります。この立場にも関わらず信秀は伊勢湾に近い木曽川に臨むの港と津島の港を支配することで、資金を確保し勢力を拡大していきました。そして尾張国で一大勢力となり戦国大名になります。この勢力はのちに信長飛躍の基板になります。
 二つ目の尾張の大うつけと呼ばれたですが、信長はゆかたを袖脱ぎで着て、くるぶしまでの丈の半袴を穿いて出歩いていたとあります。
 髪型は茶筅髷で、これは派手好きな若者がやる格好で、この格好をした若者は「傾き者」と自称しました。そして町中で歩きながら柿や栗や瓜を食べたり、立ったまま餅を食べ、人に寄りかかりながら歩いていたとされます。
 これらは一大名の嫡子としては相応しくない姿です。嫡子というのは次期当主になる人物ですのでこのような格好では、領民や信秀の家臣に示しがつきません。うつけと呼ばれても仕方ありません。
 三つ目の古渡城で元服ですが、これは信秀の居城が古渡城であったからです。そして三郎信長と名乗ることについては祖父信定や父信秀も通称で三郎を名乗っているので織田弾正忠家当主(次期当主)が名乗る通称であったと考えられます。
 
 織田信長の誕生から元服までをざっくり解説してきましたが、今回ここで終わりたいと思います。続きは次回解説いたします。
 意見や質問がありましたらコメントお願いします。 
 ここまで読んでいただきありがとうございました。