のぶながの小さな野望の日本史解説

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織田信長の誕生から尾張統一までPERT①【解説】

 どうもこんにちは、のぶながの小さな野望です。なんとなく始めたブログに足を運んでいただきありがとうございます。試行錯誤をしている真っ最中なので、読みづらいかも知れません。申し訳ないです…。

 

 このブログは、日本史に登場する人物出来事について解説するものです。筆者の趣味的にテーマが戦国時代から幕末が中心となってしまいがちになると思われますが、リクエストが有ればできる限り解説したいと思っています。

 

 今回のテーマは織田信長の誕生から尾張統一までの解説を行いたいと思います。織田信長は皆さん良く知っている人物だと思います。尾張国から領土を拡大し、天下統一間際と思われていた1582年に本能寺の変で亡くなった戦国大名です。ところが有名人物の織田信長が教科書で取り扱われる最初の場面は1560年の今川義元に勝った桶狭間の戦いからが大半です。じゃあそれ以前は何をしていたのと聞いても殆どの人は分からないと思います。では、解説しようではないかというのが今回のテーマを選んだきっかけです。

 

 それではまず織田信長の誕生から元服までの出来事をざっくり見てみましょう。

  1. 天文3(1534)年5月12日に織田弾正忠家当主信秀嫡子として誕生。幼名は吉法師
  2. 幼少の頃から青年まで奇行を繰り返し、周囲から尾張の大うつけと呼ばれる。
  3. 天文15(1546)年に古渡城で元服三郎信長と名乗る。
 一つ目の織田信秀の嫡子として生まれるですが、信長には実は兄がいます。名を織田信広といいます。信広の母は信秀の側室で史料に記載はないですが、おそらく身分が低い人物だったと思われます。次男の信長は母が信秀の正室である土田御前であったため嫡子となったわけです。
 ちなみに織田信秀尾張国守護斯波氏の被官で尾張下四郡守護代清洲織田氏の家臣の三奉行という立場にいました。わかりやすく書くと
尾張守護斯波氏  尾張下四郡守護代清洲織田氏  三奉行弾正忠家信秀 
となります。この立場にも関わらず信秀は伊勢湾に近い木曽川に臨むの港と津島の港を支配することで、資金を確保し勢力を拡大していきました。そして尾張国で一大勢力となり戦国大名になります。この勢力はのちに信長飛躍の基板になります。
 二つ目の尾張の大うつけと呼ばれたですが、信長はゆかたを袖脱ぎで着て、くるぶしまでの丈の半袴を穿いて出歩いていたとあります。
 髪型は茶筅髷で、これは派手好きな若者がやる格好で、この格好をした若者は「傾き者」と自称しました。そして町中で歩きながら柿や栗や瓜を食べたり、立ったまま餅を食べ、人に寄りかかりながら歩いていたとされます。
 これらは一大名の嫡子としては相応しくない姿です。嫡子というのは次期当主になる人物ですのでこのような格好では、領民や信秀の家臣に示しがつきません。うつけと呼ばれても仕方ありません。
 三つ目の古渡城で元服ですが、これは信秀の居城が古渡城であったからです。そして三郎信長と名乗ることについては祖父信定や父信秀も通称で三郎を名乗っているので織田弾正忠家当主(次期当主)が名乗る通称であったと考えられます。
 
 織田信長の誕生から元服までをざっくり解説してきましたが、今回ここで終わりたいと思います。続きは次回解説いたします。
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 ここまで読んでいただきありがとうございました。