のぶながの小さな野望の日本史解説

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織田信長の誕生から尾張統一までPERT②【解説】

 どうもこんにちは、のぶながの小さな野望です。前回から続き、織田信長の誕生から尾張統一までの解説を行いたいと思います。

 

 ですが、その前に信長の父織田信秀時代の尾張国の勢力図を画像で確認したいと思います。

 

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赤色:織田弾正忠家 青色:清洲織田氏 緑色:岩倉織田氏(天保国絵図尾張国を編集)

 ざっくりとした勢力図で申し訳ないですが、自作なので勘弁してください。この地図を見れば分かる通り、織田弾正忠家(織田信秀)の勢力の大きさは他二つの勢力を凌駕するものです。前回説明しましたが、織田弾正忠家は清洲織田氏の部下の立場にあります。ですが、弾正忠家は強大な勢力を持っていたため主体的に三河・美濃などの他国へ出兵することが可能となりました。ですが信秀は終生清洲織田氏の奉行としての地位を維持し、尾張国内での対立勢力を排除することはありませんでした。そのため信長が家督相続後に反乱勢力との対決を強いられる状況となります。

 

 では、このような状況の中信長は元服以降どのような出来事が起きたか確認して行きましょう。

  1. 天文17(1548)年、斎藤道三濃姫と婚姻
  2. 天文20(1551)年、織田信秀病死、信長が家督を継ぎ上総介信長を名乗る
  3. 天文21(1552)年~天文24(弘治元、1555)年にかけ反乱勢力清洲織田氏と対決し勝利する。
 一つ目の斎藤道三濃姫と婚姻ですが、斎藤道三とは美濃国戦国大名で下克上で成り上がった人物です。織田信秀は天文16(1547)年に斎藤道三の居城稲葉山城城下まで押し寄せる侵攻を行っている。だが尾張への撤退戦で斎藤勢に追撃され大損害を受けている。さらに同年に尾張国内の対抗勢力からの侵攻・自勢力から反乱分子出現・今川義元の西三河侵攻制圧などで勢力衰退の危機にありました。

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赤色:尾張国内反乱勢力(犬山衆・田楽衆・清洲織田氏) 水色:美濃勢 紫色:駿河
 そのような中、美濃での敗戦の翌年に斎藤道三の娘濃姫と信秀の息子信長の婚姻が示すものは、斎藤道三との和睦です。さらに清洲織田氏とも和睦し、犬山衆・田楽衆を武力で鎮圧した。この和睦や鎮圧により戦う相手を絞ることができ、自戦力の分散を防ぐ狙いがあったと思われます。
 二つ目の信長が家督を継ぐですが、信長の父信秀は流行病にかかり、天文20(1551)年【諸説有り】に42歳で亡くなった。これにより信長が家督を継ぐ事になりました。ですがPERT①でも書いた通り、信長は嫡子として相応しくない行動を行っていたため、信長の家督相続に反対する弾正忠家家臣が大勢いました。その者達がのちに家を二分する反抗勢力となっていきます。さらに信長の傅役(お守り役)であった平手政秀が天文22(1553)年自害しています。自害の理由は諸説ありますが、『信長公記』では、政秀長男五郎右衛門の馬を信長が所望したところ、小憎たらしく断ったため信長は恨み、その影響で主従不和となり自害したとされています。これら家中の不穏分子や傅役の自害で信長の政治的立場は不安定なものであったと思われます。
 上総介信長を名乗るについてですが、なぜ信長が上総介という官職を選んで名乗ったのかについて考察しましょう。そもそも地方官史の位は律令制では四等官制で、上から守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかめ)で分けられます。そのため上総介は上総国の次官の官史となります。上総介という官職は中世では主に足利氏の分家の吉良氏が名乗る官職でした。ですが吉良氏(三河吉良氏)は戦国時代に入り内部分裂を起こし衰退していました。そこで台頭してきたのが吉良氏の分家であった駿河今川氏です。ですから三河吉良氏は今川氏の主家筋にあたります。そのため信長は元々吉良氏の官職であった上総介を名乗ることで、今川氏に「おまえより上だから」という主張となっているわけです。ちなみに戦国時代に入り、室町幕府の権威が低下するにつれ、戦国大名や地方豪族が勝手に官職を名乗るというのは良くあることなので、信長も幕府の許可無く勝手に上総介を名乗っていたと思われます。
 余談ですが、信長は一時期上総守を名乗っています。ですが、上総国親王任国(親王が国守に任じられた国)のため、上総太守(上総守と同じ)は親王のみとなります。そのため誰かに指摘されたのか、上総守は一年足らずで名乗らなくなり、その代わり上総介を名乗り始めました。
 三つ目の反乱勢力清洲織田氏と対決ですが、信長は家督を継いだ翌年の天文21(1552)年から謀反を起こされています。鳴海城城主の山口教継、息子教吉が今川義元に内通し駿河勢を尾張領内に引き入れるという事件を起こしました。さらに同年に清洲織田氏の家臣が信長の勢力範囲内の城を占領する事件も起きています。これらに対し、信長は抗戦の姿勢をみせました。
 反乱分子や駿河勢・清洲勢との攻防の中、天文23(1554)年7月12日に尾張守護であった斯波義統が清洲織田氏の家臣に攻められ自害しました。これにより義統の息子義銀(当時は幼名の岩龍丸)が信長を頼り落ち延びてきたことにより、信長は清洲織田氏を討つ大義名分を得たのです。これは尾張統一において非常重要なことであり、討たれた守護の子息を担いで尾張統一に乗り出すことにより、中立であった者達を自陣営に引き入れる理由が出来ます。なにより大義名分を得た自軍勢の士気が上がります。
 これにより同年7月18日には信長の弟信行家臣柴田勝家清洲へ攻め大勝を挙げ清洲織田氏の重臣を数々討ち取りました。劣勢となりさらに重臣も失ってしまった清洲織田氏方は織田信秀の弟信光と清洲織田氏当主織田信友の2名を守護代にし、信光を自陣営に取り込む計画を立てました。信光は信秀の右腕のような存在で、信秀死後は信長支持派の重要人物となっていました。信光は計画に乗ったふりをして、信長にこのことを報告し、清洲城に入城しました。そして天文24(1555)年4月20日に信光は清洲城を乗っ取り、織田信友切腹させました。これにより清洲城は信長のものとなり、清洲織田氏は滅亡しました。
 余談ですが、織田信光清洲城占領後は清洲城を信長に譲り、代わりに信長の居城であった那古屋城(名古屋城とは別)を貰っています。ですが清洲城乗っ取り事件と同年弘治元(1555)年11月26日に不慮の事故で横死しています。誰の意図が働いて殺されたのでしょうかね?
 
 PERT②では信長の尾張統一の前半部分の解説をしました。おそらくPERT③で尾張統一までの話は終わります。次のテーマを現在考えていますのでお楽しみに。
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